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天正壬午の乱の序章 神流川の合戦ゆかりの地を訪ねて

                            神流川合戦地巡り




群馬県高崎市と埼玉県本庄市の県境を流れる神流川。歴史上では激動の年と云われる天正10年に、ここで関東最大級の大戦があったのだ。

まずは天正10年(1582)から時系列で紐解いていこう。

3/11   織田信長が信濃・甲斐に侵攻し、天目山の戦いで武田勝頼を自害に追い込む。(武田家の滅亡)

3月下旬  滝川一益が信長より信濃二郡と上野一国を与えられる。

6/2     織田信長が家臣の明智光秀の謀反により本能寺で自害する。

6/11・12  滝川一益に北条氏政や冨岡秀長から京都の様子について問い合わせがある。

6/13   羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討つ。

天正壬午の乱への序章

6/16   北条氏直・氏邦が北条・織田同盟を破棄し上野に侵攻、倉賀野城を攻撃する。

6/18・19  滝川一益は上野国衆を参集し、北条軍と神流川で激突する。滝川軍は初日は勝利するも二日目は惨敗し敗走する。

6/27   豊臣秀吉が清須会議にて主導権を握る。

7月    北条氏政は碓氷峠を越えて織田勢を追撃、真田昌幸を臣従させ信濃・佐久郡を攻略、徳川家康との戦争に突入する。

8/12   北条氏政は上杉景勝と和睦し諏訪に侵攻するが、甲斐で徳川家康に敗北する。(黒駒の戦い)

9月     真田昌幸は北条から離反、徳川に臣従する。

10月    北条氏政は徳川家康と和睦し上野を北条分国、信濃・甲斐を徳川分国とする事で合意する。

・・・・・

天正14年  徳川家康が豊臣秀吉に臣従し、関東惣無事を命じられる。

天正18年7月
       秀吉の小田原征伐により後北条氏は滅びる。これによりほとんどの関東の国衆達は国を追われることになる。


とまぁ、大体はこんな流れで推移したのだ。

そんなわけで、おそらく後北条氏にとっても、最後の大勝ちした戦である神流川の合戦。出来るだけ行ってみようか。。


1.神流川古戦場碑

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まずは神流川古戦場碑。これは神流川橋の高崎側にあり、すぐ裏には陸上自衛隊新町駐屯地がある。


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神流川橋を本庄方面へと進む。


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橋から南側を見てみる。JR高崎線がすぐそばを通っている。更にずーっと先には藤武大橋があるのだけど、そちらの方まで戦場だったようだ。。


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こちらは北側で、ずーっと先に滝川一益が本陣を置いた所があるんだね。


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これは橋を渡り切った埼玉県側にある案内板だ。


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ところで、現在(2018.7.15)はすぐ北側に本庄バイパスを造っているのだ。


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どうやら、この神流川古戦場碑も場所が移動されるみたいだね。


2.倉賀野城

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ここは住宅街にあり、車を止める場所も無いので路駐(住宅の前)してしまった。但し遺構らしきものは見当たらないので5分位の訪城。


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京での惨劇を知りつつも、叛心無き事を伝えながら兵を北上させて一挙にこの倉賀野まで攻め込んだ北条氏邦さん。


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その行動を察知していた滝川軍も押し寄せ、国衆たちの活躍により北条軍は本庄まで撤収を余儀なくされる。そして舞台は神流川合戦の地へと移る。


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遺構が無いとはいえ、こうして説明板や石碑もある。


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これが倉賀野城跡碑だ。


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今は細長い公園となっている。


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南側は烏川が湾曲しながら流れている。


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そういえば、ちょっと前に群馬歴史博物館で開催された「織田信長と上野の国」でジオラマが展示されていたので、ここに貼っておこう。


3.軍配山古墳

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神流川合戦の地を南に見下ろす位置にある円墳。


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この辺りには高台がまったく無い為に滝川一益がここに本陣を置いて采配を振るったと云われている。


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頂上部分。


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そこから南を眺めると、両軍相まみれる神流川合戦の地という事だね。


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初日は、押せ押せで推移したから左奥の本庄方面で戦火が上がってたんだろう。


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北を振り返って見ると遠くに赤城山が望めるね。


4.川井城

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遺構らしきものは見当たらないね。現在はポツリと八千矛神社が建っている。


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説明板には、北条麾下である斎藤定盛の金窪城の支城で弟の基盛が在城したが、滝川軍に攻められ落城したとのことだ。


5.安盛寺

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上里町にある安盛寺は、戦火により焼失したという。


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説明板もきちんとあるね。


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本堂。


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ステンレス?の石灯篭は初めて見たけど他にもあるのかな?


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説明板。


6.上松寺

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上里町にある上松寺。戦火により焼失。


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本堂は新築工事中だった。


7.吉祥院

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上里町にある吉祥院。こちらも戦火により焼失。


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本堂。


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説明板。


8.長沼氏館跡(浮浜城)

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上里町にある館跡だが、遺構はまったくなし。合戦時に焼失。


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石碑の裏に何やら沿革が書いてあるみたいだけど、炎天下では読んでられなかったよ。


9.興国寺

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上里町にある興国寺。戦火により焼失。前記の長浜氏館跡から見える位置にある。


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本堂。


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説明板。


10.金剛寺

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上里町にある金剛寺。合戦時に戦火により焼失。


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立ってたり座ってたりする6地蔵は珍しいとフォロワーさんが言ってた。


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本堂。


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説明板。


11.福昌寺

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上里町にある福昌寺。戦火により焼失。


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寺前にある蓮の華が、しばし暑さを忘れさせてくれる。


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本堂。


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説明板。


12.大光寺(勅使河原氏館)

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上里町にある大光寺。戦火により焼失。


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勅使河原氏は武蔵七党のひとつである丹党の庶流で、鎌倉年間は源頼朝に仕えて活躍していたが、南北朝時代になると南朝方に属したため、没落していってしまったようだ。


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本堂。


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本堂裏にある石塔。左が親子地蔵で勅使河原父子の墓でもあるようだ。右は石幢で供養塔との事だ。何れも室町時代のものだ。


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その横にある総門。鎌倉時代から今日まで頑張っている立派な門だ。


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この門には合戦時における矢弾の痕が残っていると云われるが、現地に説明板は無い。

 
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しかし、よくよく見てみると傷痕は前面だけで人の立つ高さに集中している事から、かなり信憑性が高いものと思われる。


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説明板。


13.金窪城

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上里町にある金窪城。歴史は古く平安末期の治承年間(1177~81)に武蔵七党の一党である丹党から出た加治家治の築城と伝えられ、元弘年間(1331~34)に新田義貞が修築して、家臣の畑時能に守らせたという。

室町中期の寛正年間(1460~66)には斎藤実盛の子孫といわれる斎藤盛光が居城した。

天正10年(1582)6月、神流川の合戦において、後北条方に与した為、滝川軍に攻撃され一族ことごとく討死にし、城も兵火にかかって焼失し斎藤家は没落した。

その後、徳川家康の関東入国にともない、川窪氏の所領となり陣屋がおかれたという。川窪氏は元禄元年(1698)丹波国に転封となり、陣屋も廃されたという。


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とても分かりづらいが萠美保育園を過ぎて左に曲がる道を進むと公園が見えてくる。その向かい側に城址碑がある。


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周りを探すと僅かに土塁が残っているが、ほとんどが気付かないレベルだと思う。


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遺構はともかくとしても、この説明板はとても詳しく説明されてて有難い。


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向かいの公園の名前もいい感じだね。


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今は閑散としている園内の遊具がもの悲しさを誘うね。


14.陽雲寺(金窪南城)

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上里町にある陽雲寺。ここも南城として機能していた為に戦火により焼失。


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新田義貞の家臣である畑時能の墓もあるね。


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陽雲寺は色々な歴史が楽しめるお寺だ。というか、武田信玄だと??まさか、何か関係があるのか・・・・。


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第二次大戦中に鉱物資源不足で、この辺り一帯の釣鐘が軍により没収される中、由緒正しいものとして免除されたと云われている釣鐘だ。


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なるほど。後北条氏滅亡後の徳川の関東移封に伴い、臣下していた川窪信俊にこの地が宛がわれた。この川窪さんが武田信玄の甥っ子だったという事なんで武田にまつわるものがあるのか。。これは楽しみだ。。
それにしても、金窪に川窪とは・・・家康公もダジャレが好きなのかな。。


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寺の周りを見てみると、土塁の跡や堀跡を思わせる部分も見受けられ、往時を偲ばせてくれる。


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ご立派な本堂。


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陽雲寺は鎌倉時代初期の元久二年(1205)の創建と伝えられ、初め唄樹山満願寺と称したという。室町時代になると金窪城主斉藤氏の帰依が厚く天文九年(1540)斉藤定盛が諸堂を修復し、寺名を崇栄寺と改めたそうだ。
が・・・、天正10年の神流川合戦の折に戦火に包まれて焼失してしまった。。

その9年後にこの地を宛がわれた川窪氏は、寺を復興し名前を陽雲寺と改めたのだそうだ。

さて、この陽雲という名前・・・武田好きならすぐに分かると思うが、私のような駆け出しには、さっぱりと分からない。調べてみると武田信玄の奥方の三条夫人の法名だという事だ。。


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隣にあるお堂。


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ぬぬっ!は、花菱。。


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お堂の横をすり抜けていくと、騎馬武者。。おー、いいねぇ。。その他にも写真は撮り忘れたが武田家臣供養の碑とかもあった。


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そして中央の鉄格子の門に守られたお墓。これが三条夫人の墓との事だが???


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ここで説明板を見てみよう。1618年に三条夫人がこの地で亡くなったと書いてあるね。・・・ふうむ。。たしか、三条夫人は1570年に甲府で50歳で亡くなって、お墓は甲府の円光院にある筈なのだが・・・。

これはあくまで勝手に想像してみたものだが、あのお墓は川窪信俊が母のように慕ってた三条夫人の遺品を形見分けしてもらった物をこの地に埋葬して墓碑を造り心の支えにしたものなのかな・・・・なんて思いを巡らせてみると歴史も面白いよね・・・。そういえば、一緒に行ったフォロワーさんは、川窪信俊夫人の墓ではないかな・・・なんて言ってたな。それも考えられるね。。


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何はともあれ、明治時代に三条実美卿(幕末の長州派公家として有名)が、ご先祖様を慕って陽雲寺を訪れ、色々な物を寄贈したのは事実のようだね。。


15.首塚八幡宮

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高崎市にあるのだが、意外と見つけ辛いかもしれないね。


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神流川合戦に於いて勝利した北条軍がこの地で首実検したと伝わる。


16.胴塚稲荷

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首塚から僅かな距離だが、こちらは藤岡市になるんだね。


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元々は円墳があった場所だが、合戦に於いて討ち取った敵兵を首実験する時に切り離された胴がここに積み上げられたと云われている。。


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この説明板をもって怒涛の神流川合戦地巡りを締めくくりたいと思います。


北条軍 50000  vs  滝川軍 18000

と云われているが・・・実際はどうなんだろう?


戦況は初日の滝川軍が終始有利に進んでいたが、二日目に後陣の上州衆たちが戸惑い始めてしまったため当てに出来ず、最後は滝川一族のみで後北条軍と戦ったようだ。

今回の史跡巡りは、ほとんどが埼玉県の上里町に集中していたが、かなりの移動距離だったと思う。


更に言わせてもらうとツイッターのフォロワーさんと炎天下の中を怒涛のように巡った歴史旅だった。当日、山城を二本熟してからのこのコース巡り。鬼のような行軍だったが、とても楽しい旅だったな。





と、終わりにしたいところだったが、おいおい、何か忘れてないかい?そうそう、最後は合戦後の事だね。 というわけで、別日に行って来たものをどうぞー。



17.浄泉寺

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浄泉寺は高崎市にあり、合戦後に北条方が敵味方の戦死者供養を行った場所だと云われている。


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総門。お・・・丸に三鱗・・・。


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こちらにもしっかりとあるけど、北条鱗では無いんだね。これは鎌倉北条の三角形だったっけか??


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横断幕もあるけど、いつもこうなのかな?


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鐘楼。


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本堂。


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ミツウロコの横断幕と浄泉寺の扁額。


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よく分からないが、こういうのはとりあえず撮っておく。笑


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最後の最後は高崎市の天然記念物指定を受けた大銀杏。江戸前期頃に植えられたと思われ、高さ約25メートル、周囲約5.2メートル、樹齢約400年と推定されているそうです。



はい。これにて長かった神流川合戦地巡りも終わりにしたいと思います。最後まで読んでくれて有難うございます。m(__)mんちょ



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コメント

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よくぞ巡りました

グンマー県立歴史館の「織田信長と上野国」の展示をみて、神流川合戦の史蹟を巡ってみたいものだと思いつつ何故か古墳巡りに変更・・・(笑)
下調べしないと、これだけの史蹟をイッキに回るのは不可能でしょう。その熱意に頭が下がる思いです。

滝川さん、織田領の防衛に徹して(ってか情報収集が遅れた?)清須会議に遅れてしまい蚊帳の外の冷遇になってしまいました。森長可のように極悪非道(ま、戦国時代は別に普通の手段なんでしょうけど)な方法で信濃から領国に戻ったように彼もいち早く伊勢に戻れば状況は変わったのでしょうか。

この合戦、関ヶ原よりもまともな合戦なのにあまり取り上げられません。
天正壬午の乱の序章なのですが、地元でも関心が薄いのはどうしてでしょうか。まあ、滝川さん自身の人気がイマイチなので仕方ありませんね(笑)

よい史跡巡りでした。小生も貴殿の記事を読み現地に行った気分になって終了したいと思います。
夏場の山城巡りは体に良くないので最近は古墳とダムを満喫しております・・・・(笑)

Re: よくぞ巡りました


らんまるさん、いつも有難うございます。

神流川合戦地は何度か巡っているのですが、例の歴史館の展示で他にもある事を知って重い腰を上げた次第です。
と言っても、あと一か所を回れずだったので、そのうち追記する予定であります。

本領安堵に国衆達も挙って人質を差し出すほど滝川さんは最東端で頑張ってたんですけどね、僅か数か月では完全に人心を掴みきる事は出来ませんよね。

滝川さんがもし清須会議に間に合ってたら・・・ウーム、秀吉の根回しの良さを考えると難しいですかね。


ところで、神流川合戦地の僅か十数キロ上流には、北条最強パパの氏康さんが城主父子以外を皆殺しにした事で有名な金鑚御嶽城があります。数千人程殺されているので、きっとこの川も朱に染まった事でしょうね。もし行かれていない場合は是非ともお越し下さい。。
 
お声掛け下されば、いつでも露払いを致しまする。(もちろん冬です)