桜町陣屋
2016. 8. 14
栃木県真岡市にある桜町陣屋は、二宮尊徳(金次郎)が活躍した場として知られています。
文政6年(1823)、二宮尊徳は小田原藩主大久保忠真の命により、疲弊していた桜町領を復興するために、相模の国栢山村(神奈川県小田原市)からやってきました。
尊徳はこの地で報徳仕法と呼ばれる独自の農村経営法と思想哲学を編み出し、26年もの間、ここを拠点に桜町をはじめ近隣の村々の復興に尽くしました。
桜町陣屋は元禄12年(1699)、小田原の大久保家を本家とする旗本の宇津家が、野州桜町4千石を治めるために設けた役所です。
尊徳がいた頃の陣屋は周囲を土塁で囲まれた中に、主屋をはじめ、長屋や書物蔵などが建っていたと記録にあります。
主屋は増改築を繰り返しつつ現在まで伝わっています。また「報徳田」と呼ばれる水田や畑もありました。
<現地説明板より>
広い駐車場完備は二宮尊徳のネームバリューだろう。
それにしても綺麗だ。。たまには観光地化されたところを訪れるのもいいもんだね。
どこから攻めていいのか分からないから、とりあえず西から行ってみよう。
この窪みは新堀川が流れてるようで水路となってるようだね。
ここは・・・文庫跡。。さすが尊徳。
水田とその先にある役所建物。
北東水路跡。
北東土塁跡。
折れの入る水路跡。
東側には水の流れがある。
続いて役所建物へと向かう。
この役所建物は文政6年(1823)の尊徳着任時に建設され、その後数度の改築や修復を経ているのだそうだ。それを天保10年(1839)当時の姿に復原したものだそうだ。
井戸もあるね。
こ、古民家。。
この感じは好きだな。。
藁葺きは三層になってる感じだね。
土間。お袋の実家に行った時にはあったな。
風通しが良さげだな。
尊徳が朝早くから日が暮れるまで村内を歩き回って指導した後に陣屋に上がる際に足を洗った池と言われている。
南に向かうと・・・お!こ、これは・・・。
喰い違い虎口になっとるがな。
西に延びる土塁も見事。
虎口を反対側から見てみた。
更に南に進むと報徳訓の碑。
敷地の東側にある二宮神社。
そこから一挙に南に進み、二宮金次郎墓域なるものを見に行く。
金次郎像・・・思えばどこの小学校でも校庭の片隅にあったね。薪を背負いながらも時間を惜しんで勉強する姿。これがながら歩きで子供が真似をして危険との理由でどんどん撤去されたのだそうだね。少年老い易く学成り難しという見方が出来ないものなのかな?ま、上っ面だけで判断する今風だと言えばそれまでだが・・・。
右側が金次郎の墓碑。二宮翁は安政3年(1856)、日光幕領復興仕法中に今市役所で逝去され(享年70)、今市の如来寺に葬られたのだそうだ。この墓碑はその遺髪を奉じたものなんだね。
帰りに二宮尊徳資料館に立ち寄って少しお勉強をしてきた。それにしても全国区だった二宮尊徳がまさかとなりの県で偉業を成し遂げてたとは思いもよらなかったな。。
栃木県真岡市にある桜町陣屋は、二宮尊徳(金次郎)が活躍した場として知られています。
文政6年(1823)、二宮尊徳は小田原藩主大久保忠真の命により、疲弊していた桜町領を復興するために、相模の国栢山村(神奈川県小田原市)からやってきました。
尊徳はこの地で報徳仕法と呼ばれる独自の農村経営法と思想哲学を編み出し、26年もの間、ここを拠点に桜町をはじめ近隣の村々の復興に尽くしました。
桜町陣屋は元禄12年(1699)、小田原の大久保家を本家とする旗本の宇津家が、野州桜町4千石を治めるために設けた役所です。
尊徳がいた頃の陣屋は周囲を土塁で囲まれた中に、主屋をはじめ、長屋や書物蔵などが建っていたと記録にあります。
主屋は増改築を繰り返しつつ現在まで伝わっています。また「報徳田」と呼ばれる水田や畑もありました。
<現地説明板より>
広い駐車場完備は二宮尊徳のネームバリューだろう。
それにしても綺麗だ。。たまには観光地化されたところを訪れるのもいいもんだね。
どこから攻めていいのか分からないから、とりあえず西から行ってみよう。
この窪みは新堀川が流れてるようで水路となってるようだね。
ここは・・・文庫跡。。さすが尊徳。
水田とその先にある役所建物。
北東水路跡。
北東土塁跡。
折れの入る水路跡。
東側には水の流れがある。
続いて役所建物へと向かう。
この役所建物は文政6年(1823)の尊徳着任時に建設され、その後数度の改築や修復を経ているのだそうだ。それを天保10年(1839)当時の姿に復原したものだそうだ。
井戸もあるね。
こ、古民家。。
この感じは好きだな。。
藁葺きは三層になってる感じだね。
土間。お袋の実家に行った時にはあったな。
風通しが良さげだな。
尊徳が朝早くから日が暮れるまで村内を歩き回って指導した後に陣屋に上がる際に足を洗った池と言われている。
南に向かうと・・・お!こ、これは・・・。
喰い違い虎口になっとるがな。
西に延びる土塁も見事。
虎口を反対側から見てみた。
更に南に進むと報徳訓の碑。
敷地の東側にある二宮神社。
そこから一挙に南に進み、二宮金次郎墓域なるものを見に行く。
金次郎像・・・思えばどこの小学校でも校庭の片隅にあったね。薪を背負いながらも時間を惜しんで勉強する姿。これがながら歩きで子供が真似をして危険との理由でどんどん撤去されたのだそうだね。少年老い易く学成り難しという見方が出来ないものなのかな?ま、上っ面だけで判断する今風だと言えばそれまでだが・・・。
右側が金次郎の墓碑。二宮翁は安政3年(1856)、日光幕領復興仕法中に今市役所で逝去され(享年70)、今市の如来寺に葬られたのだそうだ。この墓碑はその遺髪を奉じたものなんだね。
帰りに二宮尊徳資料館に立ち寄って少しお勉強をしてきた。それにしても全国区だった二宮尊徳がまさかとなりの県で偉業を成し遂げてたとは思いもよらなかったな。。
スポンサーサイト
コメント