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御館(おたて)

                            2016. 6. 5





御館とは、小田原北条氏により関東を追われた上杉憲政(関東管領)の為に造られた居館で、後に養子となり管領職を受け継いだ謙信も政庁として使用した。

謙信の急逝後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝(謙信の実姉の子)と上杉景虎(北条氏康の七男で越相同盟により養子として迎えられた)との間で起こった御館の乱において、春日山城から退去した景虎方が本拠とした。

御館の乱は謙信の急逝直後の天正6年から春日山城内で勃発し、やがて上杉家中を二分するほどの規模へと発展していき、翌年の天正7年に景虎が自刃する形で幕を閉じるが、最終的な収束は翌8年まで掛かり、更にその後の恩賞の配分を巡り反乱が起き、その鎮圧に7年もの歳月を要したという。


現在は住宅街の中に小さな御館公園があるが、往時を偲ばせる遺構は残っていない。



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どこにでもある住宅街の公園だが・・・。


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因みにこの御館の乱に於いて、景虎方に与した謙信の養父であり元関東管領上杉憲政は、和議を求め景勝の陣中に出頭する直前に殺害されてしまったとの事。


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御館の遺構は無いものの、この公園の6倍の広さで堀に囲まれていたというから立派な城だね。


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公園の角にこれらがあるだけでも来た甲斐があったというもの。。


今回は、写真も少ないので、これにて終わり・・・

と言いたいところだが・・・

この御館の乱により大きな影響を受けたお方の説明を端折るわけにはいかないので、もう少しだけお付き合い下さい。



御館に移った景虎は兄の北条氏政に救援要請をしており、それと同時に景虎方は上野から越後に向かう道筋の諸城を落とし、救援ルートを確保したのだったが、北条本隊は折しも佐竹・宇都宮連合軍と鬼怒川で交戦中で援軍を出せる余裕が無かった。

そこで氏政は、同盟関係にある武田勝頼に当面の景虎救援の要請をした。それに応えて越後へと進軍した勝頼だったが、景勝方から同盟の申し入れを受けこれを受諾し、あくまで中立的立場から仲裁に入り、双方の和解・内戦の停止を狙った。

勝頼の狙いは、甲相越の軍事同盟を結ぶ事により、織田・徳川連合軍に当たろうというものだったようだ。

しかし、徳川が自領を攻めてきたので、調停の途中で急遽帰国してしまう。これにより、一旦は双方和解の色を見せてきたが、再び関係が悪化して、最終的に景虎自刃という形で幕を下ろす事となった。

この結末により勝頼は北条氏政との関係も悪化、やがて敵対していく事になった。お互いの敵対する国と同盟を結び、両者が敵国に挟まれる形で展開されていく。この頃の勝頼は勢いもあり北条領を侵食していったが、対徳川方面では苦戦する。家康に高天神城を落とされると、救援に駆けつけなかった事で政治的威信は失墜してしまう。

その後重臣の木曽義昌が織田方に内通すると、満を持して信長は武田領侵攻を下知する。

信長の本格的な介入により、武田方では家臣や国衆たちの離反や逃亡が相次ぎ、勝頼が最後の日を迎える頃には、付き従うものは男41名、女50名という100人足らずであったという。


といった流れになるわけだけど、やはり武田と北条の同盟の破綻が武田滅亡への遠因になっているのは想像に難くないね。


御館の乱は単なる家督争いだけでなく、家臣同士の確執や派閥争いも大きく絡んでいるので、そう簡単に収まるものではなかったんだろうな・・・。そんな事を思いながら現地にくると、日本の歴史を左右したであろうお家騒動がこの地でほんとにあったのかと思ってしまう程、ひっそりとしているのに驚くのであった。



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